魏志倭人伝の記述による伊都国から邪馬台国までの合理的進路
二見浦(糸島)

「邪馬台国は福岡平野にあった !」

  倭人伝を自然体で読み解けば・・・・・

いわゆる邪馬台国論争は歴史に興味がある人ならば誰でも知っていますが、その実際の内容は殆ど知られていません。いわばムード的に近畿だ、九州だと言われているのが実態と言ってよいでしょう。

普通に国と言われるものを考えた場合、ある程度の領域(領土)があり、そこに人が住んでいて、住んでいる人々は一定のルールに従った社会生活をしている、という要件を満たす必要があります。いくら広くても人が住まない南極大陸は大陸ではあっても国ではありません。また無人島はある国に属する事はあっても無人島自体が国ではありませんし、人が住んでいてもバラバラで互いに何の関係もない状態では国とは言えず、独裁制、王制、民主制など政治形態の違いはあっても一定のルールに基づいて社会生活が行われている事が要件なのです。

その三つがそろえば国と言えるのかというと、もう一つ重要な要件があります。それは周囲の国から、そこに国があると認められている事です。別の言い方をすれば、他のどこの国からも支配されていない事が重要です。国として認められずに滅亡した国は歴史上少なくない事を見れば明らかでしょう。いずれの国にせよその存在意義、或は統治の正当性は重要な問題であり、それ故に建国後あまり時間が経過していない国では、正当性を主張するため歴史の捏造が行われる事も少なくありません。

我国はそのような事を行わなくても、長い歴史を持った国である事は世界中から認められており、その意味では幸せだと言えると思います。その幸せな我国が歴史上初めて国として明確な姿を現したのが志賀島の金印の王国であり、それに続く邪馬台国です。そういう意味で邪馬台国の時代を明らかにする事は我国の成り立ちを考える上で大きな意味を持っています。その邪馬台国の所在を巡って未だに近畿だ、九州だ、と争われているのですが、今までの所、いずれの論も今ひとつ説得力には乏しいように見受けられます。本書では倭人伝を自然体で読み解く事で、ひと味違った邪馬台国論を展開出来たと考えております。

邪馬台国は日本の史書には記載がありませんが、中国の史書である三国志(魏志倭人伝)に書かれていることから、その実在については疑われてはいません。にも関わらず、学会では倭人伝そのものは間違いが多い書と位置づけられており、ある公的な資料館の解説書には「邪馬台国の位置は不明です。南という方位の記載誤り?水行十日陸行一月という日数誤り?等の書き間違い(写し間違い)の可能性があります。」と説明されています。また、某大家の著書では「方向や日程、距離などはあまり信じない方がいい」との記述がみられます。

倭人伝は間違いが多い書というのが学会の常識となっている感がありますが、何故間違いなのかを明確に説明された論文などは見当たりません。証明されないままに「間違いが多い書」という評価が一人歩きしていると言っても過言ではないでしょう。

学会の常識に反して、倭人伝は次の三つの理由によって中国の史書の中でも信頼できる史書の範疇に入ると思われます。

第一は中国の正史はその時代が終わってから百年以上も後で書かれることが少なくない中で、著者の陳寿は三国志の時代と殆ど同時代を生きた史官で生の記録や証言を相当程度目にし、聞くことが出来る立場にあったこと、

二に現存する三国志は南北朝時代に宋の文帝に命じられた裴松之の詳細な注が付いたものであり、著者の陳寿と注者の裴松之によって二重にチェックされていること、

第三に晋の名門出身で文人でもあった夏侯湛(曹操の重臣の曾孫)が陳寿の三国志の魏書の部分を見て、(その出来映えに感嘆し)自身が書いていた魏書を破り捨て筆を折ったと伝えられていることです。

三国志は数ある中国史書の中でも信頼できる史書と見られるにもかかわらず、我が国においては、証明がされないままに、間違いが多い書であると位置づけられ、その前提の上で多くの邪馬台国論が展開されています。

これは学問的には相当危ない土台の上に乗っていると言ってよいでしょう。この状況は、自分が予定した場所に行き着かないから間違いであるとして、勝手に一部を改訂していると言われても仕方が無いようです。理解できない読み手の方に問題は無いのでしょうか。

本書はそのような証明されない倭人伝のムード的な定評を徹底的に排して自然体で読み解くとどのような結果になるのか、結果だけでなく、そのプロセスも透明性を持って読み解いたものです。

倭人伝は中国の三国時代に魏の明帝から女王卑弥呼への数々の贈物を携えてやって来た魏使が、実際に卑弥呼の宮殿に入り卑弥呼に拝謁して贈物を渡し、卑弥呼からのお礼状を預かって魏の都である洛陽まで帰った史実を元にして書かれています。そのことは倭人伝の中に「倭王に拝仮し、并(なら)びに紹を齎(もたら)し、金帛・錦罽(けい)・刀・鏡・采物(さいぶつ)を賜う」および「倭王、使に因って上表し、紹恩を答謝す」と書かれている事から明らかです。

さらには、魏と邪馬台国との関係はこれで終わった訳ではなく、その7年後にも塞曹掾史という役目の張政という人が女王国の後ろ盾として派遣されました。張政は卑弥呼の次の女王である臺与の時代まで滞在し、送られて魏王朝に還るまでの間、20年程度滞在したと見られます。その滞在経験も踏まえて書かれたのが倭人伝でもあるのです。このような経緯を踏まえれば、邪馬台国があった場所は特別な読み方をしなくても分かるように書いてあるとするのが普通の見方だと思います。

倭人伝は簡潔に書かれていますので誤読され易い箇所がある事は否めませんが、そうとも読めるという読み方よりは、普通に読めばどうなるかという読み方を基本として、地形や当時の痕跡が残る遺跡の分布状況などと照らしながら倭人伝に沿って魏使が辿った道を読み解くように心がけました。倭人伝は観光案内ではありませんから、ある場所から進み出す方向は示されていますが、途中の経路は必ずしも書かれていないからです。地形などを勘案しながら行間を読み解く事と、自分の理解と異なる箇所は間違いであるとして、ある字を勝手に変えて読む事とは全く違います。その思考のプロセスも納得頂けるよう本書でお示しできたと考えています。

 倭人伝を自然体で読み解けば
 邪馬台国を考える上でのポイント
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