倭人伝を自然体で読み解けば
邪馬台国を考える上でのポイント
 外部リンク

★ 紀伊国屋

★ 丸善・ジュンク堂

★ 楽天

★ アマゾン-1

★ アマゾン-2

★ 読者評価-1

★ 読者評価-2

魏使の行程について、通説は全水行とされるが、仮に長期の航海が出来たのであれば、半島西南端から北東に回り込んで狗邪韓国まで行く必要はなく、済州島を経由して直接対馬・壱岐または北部九州を目指す方がはるかに実際的

「邪馬台国は福岡平野にあった !」

  邪馬台国を考える上でのポイント

倭人伝には女王国に至るまでの方向や里程が、概略とは言え、明確に書かれています。ただ、その書き方は簡潔であるため、誤解や誤読を招く可能性があります。それを避けて倭人伝の記載に従って邪馬台国にたどり着くためには地形や、当時の痕跡が残る遺跡などの状況を踏まえて読み解く事が求められます。その主なポイントを通説に惑わされない21の鍵として整理しました。その考え方の概略を述べておきます。

1)倭人伝の距離の物差し(里程)

倭人伝では帯方(魏の朝鮮半島における役所)から女王国までの距離が一万二千余里と記載されています。これを当時使われていたとされる距離の単位である一里が400〜500米程度とすれば、太平洋の真ん中、あるいは赤道付近に邪馬台国がある事になってしまいますので、別の里単位が使われていた事は明らかです。結論から言いますとそれは1里が80m弱の短里でした。どうしてその事が言えるのでしょうか。

2)当時の朝鮮半島の状況

魏の使いは朝鮮半島を経由して卑弥呼がいる女王国までやってきました。当時の半島はどのような国があったのでしょうか。また、倭人伝には半島の中を実際に歩いて通過しなければ分からないような統治の様子や風俗などが書かれています。倭人伝の直前に位置する韓伝には「南は倭と接す」と書かれています。これを普通に読めば朝鮮半島の南部には倭人の領域があった事になります。それは確認出来るのでしょうか。更には、通説では朝鮮半島の西側を船で通過した事になっていますがそれは成立つのでしょうか。

3)松廬国へ上陸

魏使は対馬・壱岐を経て松浦半島付近に上陸したと見られます。帯方郡からここまでの里程は合わせて一万余里となります。女王国までの総里程は一万二千余里と書いてありますから、残りは二千余里しかありません。全体を比べた距離観から見れば、松浦半島付近からそう遠くない範囲に邪馬台国がある事になりますが、実際はどうなのでしょうか。

4)松廬国上陸後の進路

対馬・壱岐を経て松浦半島付近に上陸した魏使は、大きく見れば、東方向に進まなければなりません。しかし現在の唐津付近から東方向には1000米程度の脊振山塊が大きく立ちはだかっており簡単に進む事は出来ません。そのような地形を踏まえれば、脊振山塊の北側を通るルートか南側を通るルートか推定する必要があります。実際はどちらを進んだのでしょうか。

5)伊都国からの進路

伊都国が現在の糸島市付近である事は、豪華な副葬品を伴った王墓と呼ぶのにふさわしい墓が三つも見つかっている事から、ほぼ確かだと思われます。この伊都国は北と西は海で、南は1000米近い脊振山系が控え、東側にも脊振山系から派生した、それほど高くはないと言っても500米程度あって簡単には越える事が難しい高須山系があり、四方を天然の障害に囲まれた要害の地です。この要害の地からどのようにして更に進むのかを読み解く事が次のポイントになります。

6)魏使は何故やって来たのか

伊都国からの進路が中々読みづらいため、伊都国から先の進み方が邪馬台国論で大きく別れる所です。中には魏使は伊都国から先には進まず、伊都国にある邪馬台国の出先で贈物を渡して、その先には行かなかったなどとする論まで見られます。魏使は物見遊山や冒険でやって来たのではありません。魏帝から女王卑弥呼への豪華な贈物を携えた正式な使いとして遠路やって来たのです。

これは極めてまれなケースと見られます。普通であれば中国の巨大な帝国がそこにあるだけで、周囲の国から朝献使がやって来たのであり、帝国の側から贈物を持って行く事など考えられないのです。魏使は何故やって来たのかを解明する事は邪馬台国の所在を探る大きな鍵となります。

7)奴国はどこに

伊都国の次に魏使は奴国に進みます。この奴国を通説では福岡市一帯だとしてその中心は現在の行政区分では春日市に属する奴国の丘歴史公園付近一帯だと考えられています。その見方は妥当なのでしょうか。大きく見て福岡市は、地形的には西側の室見側流域一帯の早良平野と、東側の那珂川流域の福岡平野の二つの平野があり、その中間には油山や古代は暴れ川と考えられる樋井川があり、二つの地域に分けて考えるのが自然です。これをひとまとめにして奴国とする通説は成立つのでしょうか。地形・古代音の読み方・出土遺物・地名伝承などを踏まえて読み解けば、どのような古代の姿が見えてくるのでしょうか。

8)不弥国はどこに

通説では奴国は福岡市一帯であるとして、その東に位置する内陸部の宇美町付近が不弥国とされていますが、不弥国は投馬国への海路の起点でもあります。普通に考えれば内陸部の不弥国が海路の起点となる事はあり得ないのではないでしょうか。不弥と宇美は何となくその音が似ているという以上の論拠は無いようです。

9)投馬国に行ったのか

倭人伝では不弥国の次に投馬国が記載されています。魏使は投馬国に行ったのでしょうか。それとも投馬国がある方向を示しただけで行っていないのでしょうか。倭人伝に記載された進路の記載方法を読み解く事で明らかとなります。

10)邪馬台国はどこに

倭人伝を自然体で読めば、不弥国の南にあると書いてあるのですが、具体的にはどこなのでしょうか。倭人伝が示す方向には王墓と呼ぶのに相応しい須玖岡本遺跡があります。この付近一帯は弥生時代中期から後期に掛けての一大金属武器生産地帯でもあり、現在奴国の丘歴史公園とされて、それなりの保存措置がおこなわれています。その見方を見直す必要はないのでしょうか。

11)卑弥呼が貰った鏡とは

通説では卑弥呼が貰った鏡は三角縁神獣鏡だとして様々な検討が行われ、多くの説が展開されていますが、果たしてそれらの説は的を射ているのでしょうか。

三角縁神獣鏡は確実に中国から出土したものはありません。それが何故魏鏡とされるのでしょうか。魏鏡でないとすればどこで作られた鏡なのでしょうか。三角縁神獣鏡に関する多くの謎を解明します。

12)箸墓古墳は卑弥呼の墓か

通説では纒向遺跡の中の最大の古墳である箸墓が卑弥呼の墓であるとされていますが、その妥当性はどの程度あるのでしょうか。魏は薄葬であったことが知られています。その魏との交流を大切に考えていた邪馬台国が巨大古墳を作る事があり得るのでしょうか。魏から派遣された張政という人は卑弥呼の墓が作られる様子を見ています。見ていたにもかかわらず前方後円墳という巨大な特別な形には一言も触れていません。本当に箸墓古墳は卑弥呼の墓なのでしょうか。

13)歴史の時間軸の中での邪馬台国

地理的な面から邪馬台国を探るのが第一である事は間違いありませんが、歴史の時間軸で見た場合はどうなのでしょうか。邪馬台国はある日突然に出現したのではありません。とすれば、中国側から見た倭人(国)の様子が何らかの形で示されていてもおかしくはありません。北部九州には王墓と見られる突出した副葬品を伴う墓がいくつかあります。それらの王墓の被葬者を出土物や史書の記載などから探り、邪馬台国の出現過程に迫ります。