魏志倭人伝(中華書局評点本 1959年版)

倭人は帶方の東南大海の中に在り、山島に依りて國邑(こくゆう)を爲す。(もと)百餘國。漢の時朝見する者有り、今、使譯通ずる所、三十國。

郡より倭に至るには、海岸に(したが)いて水行し、韓國を()るに、(あるい)は南し、乍は東し、其の北岸、狗邪韓國に到る、七千餘里。始めて一海を(わた)る、千餘里、對馬國に至る。其の大官を卑狗(ひこ)()い、副を卑奴母離(ひぬもり)と曰う。居る所絶島、方四百餘里なる可し。土地は山(けわ)しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)(けい)の如し。千餘戸有り。良田無く、海物を食して自活し、船に乘りて南北に市糴(してき)す。又、南、一海を渡る、千餘里、名づけて瀚海と曰う。一大國に至る。官を(また)卑狗と曰い、副を卑奴母離と曰う。方三百里なる可し。竹木・叢林多く、三千(ばか)りの家有り。(やや)田地有り、田を耕せども(なお)食するに足らず、亦、南北に市糴す。

又、一海を渡る、千餘里、末盧國に至る。四千餘戸有り。山海に()うて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒(ぎょふく)を捕らえ、水深淺と無く、皆沈没して之を取る。東南陸行、五百里、伊都國に到る。官を爾支と曰い、副を泄謨觚、柄渠觚と曰う。千餘戸有り。世に王有るも、皆女王國に統屬す。郡使の往來、常に(とど)まる所なり。東南奴國に至ること百里。官を兕馬觚と曰い、副を卑奴母離と曰う。二萬餘戸有り。東行不彌國に至ること百里。官を多模(たも)と曰い、副を卑奴母離と曰う。千餘家有り。

南、投馬國に至ること水行二十日。官を彌彌(みみ)と曰い、副を彌彌那利(みみなり)と曰う。五萬餘戸なる可し。南、邪馬壹國に至る、女王の都する所、水行十日・陸行一月。官に伊支馬(いしま)有り、次を彌馬升(みましょう)と曰い、次を彌馬獲支(みまかし)と曰い、次を奴佳鞮(ぬかてい)と曰う。七萬餘戸なる可し、女王國()り以北、其の戸數・道里、得て略載す可し。其の餘の旁國は遠絶にして、得て(つまびら)かにす可からず。

次に斯馬國有り、次に已百支國有り、次に伊邪國有り、次に都支國有り、次に彌奴國有り、次に好古都國有り、次に不呼國有り、次に姐奴國有り、次に對蘇國有り、次に蘇奴國有り、次に呼邑國有り、次に華奴蘇奴國有り、次に鬼國有り、次に爲吾國有り、次に鬼奴國有り、次に邪馬國有り、次に躬臣國有り、次に巴利國有り、次に支惟國有り、次に烏奴國有り、次に奴國有り、此れ女王の境界の盡くる所なり。

其の南、狗奴國有り、男子王()り。其の官に狗古智卑狗有り。女王に屬せず。郡()り女王國に至る、萬二千餘里。

男子は大小と無く、皆黥面・文身す。(いにしえ)()り以来、其の使い中国に(いた)るや、皆自ら大夫(たいふ)と稱す。夏后(かこう)少康(しょうこう)の子、會稽に(ほう)ぜられ、断髪・文身、以て蛟龍(こうりゅう)の害を()く。今、倭の水人、好んで沈没して魚蛤(ぎょこう)を捕らえ、文身し亦以て大魚・水禽(すいきん)(はら)う。後、(やや)以て飾りと爲す。諸国の文身(おのおの)異なり、或は左にし或は右にし、或は大に或は小に、尊卑差有り。其の道里を計るに、當に會稽東冶の東に在るべし。

其の風俗淫ならず。男子は皆露紒(ろかい)し、木緜(もめん)以て頭に()け、其の衣は横幅、(ただ)結束して相連(あいつら)ね、(ほぼ)縫うこと無し。婦人は被髪屈紒(ひはつくつかい)し、衣を作ること單被(たんぴ)の如く、其の中央を穿ち、頭を貫きて之を()る。禾稻(かとう)紵麻(ちょま)()え、蠶桑(さんそう)緝績(しゅうせき)し、細紵(さいちょ)縑緜(けんめん)を出だす。其の地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲無し。兵に矛・楯・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭は或は鐵鏃(てつぞく)、或は骨鏃なり。有無(ゆうむ)する所、儋耳(たんじ)朱崖(しゅがい)と同じ。

倭地は温暖、冬夏生菜を食す。皆徒跣(とせん)。屋室有り、父母兄弟、臥息(がそく)處を異にす。朱丹を以て其の身體に塗る、中國の粉を用うるが如きなり。食飲には籩豆(へんとう)を用い手食す。其の死には棺有るも(かく)無く、土を封じて(ちょう)を作る。始め死するや停喪(ていそう)十餘日、時に當りて肉を食わず、喪主哭泣し、他人就いて歌舞飲酒す。(すで)に葬れば、家を舉げて水中に(いた)りて澡浴(そうよく)し、以て練沐(れんもく)の如くす。其の行來・渡海、中國に(いた)るには、(つね)に一人をして頭を(くしけず)らず、蟣蝨(きしつ)を去らず、衣服垢污(こうお)、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人(そうじん)の如くせしむ。之を名づけて持衰(じさい)と爲す。若し行く者吉善(きつぜん)なれば、共に其の生口(せいこう)・財物を顧し、若し疾病有り、暴害に()えば、便(すなわ)ち之を殺さんと欲す。其の持衰(つつし)まず、と謂えばなり。

真珠・青玉を出す。其の山に丹有り。其の木には(だん)(ちょ)・豫樟・(ぼう)(れき)・投橿(きょう)・烏號・楓香有り。其の竹には篠(かん)・桃支。(きょう)・橘・(しょう)蘘荷(じょうか)有るも、以て滋味と爲すを知らず。獮猴(びこう)・黑雉有り。

其の俗舉事行來に、云爲(うんい)する所有れば、(すなわ)ち骨を()きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。其の辭は令龜の法の如く、火坼(かたく)を視て兆を占う。

其の會同・坐起には、父子・男女別無し。人性酒を(たしな)む。(魏略に云う。「其の俗、正歳、四節を知らず。但春耕・秋收を計りて年紀と爲す。」)大人の敬する所を見れば、(ただ)手を()ち以て跪拝(きはい)に當つ。其の人の壽考、或は百年、或は八・九十年。其の俗、國の大人(たいじん)は皆四・五婦、下戸も或は二・三婦。婦人淫せず、妒忌(とき)せず、盜竊(とうせつ)せず、諍訟(そうしょう)少なし。其の法を犯すに、輕きは其の妻子を沒し、重きは其の門戸及び宗族を滅す。尊卑(おのおの)差序有り、相臣服するに足る。租賦を收む。邸閣有り。國國市有り。有無を交易す。使大倭之を監す。

女王國より以北には、特に一大率(いちだいそつ)を置き、諸國を檢察せしむ。諸國之を畏憚(いたん)す。常に伊都國に治す。國中に於て刺史(しし)の如き有り。王の使を遣わして京都・帶方郡・諸韓國に(いた)らしめ、郡使の倭國に及ぶや、皆津に臨みて搜露す。傳送の文書・賜遣(しけん)の物、女王に詣るに、差錯(ささく)するを得ざらしむ。

下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辭を傳え事を説くには、或は(うずくま)り或は(ひざまず)き、兩手は地に據り、之が恭敬を爲す。對應の聲を(あい)と曰う。比するに然諾(ぜんだく)の如し。

其の國、本亦男子を以て王と爲し、(とど)まること七・八十年。倭國亂れ、相功伐すること歴年、(すなわ)ち一女子を共立して王と爲す。名づけて卑彌呼と曰う。鬼道に(つか)え、能く衆を惑わす。年(すで)に長大なるも、夫壻(ふせい)なく、男弟(だんてい)有り、(たす)けて國を治む。王と爲りしより以來、見る有る者少なく、()千人を以て自ら侍せしむ。(ただ)男子一人有り、飲食を給し、辭を傳え居處に出入す。宮室・樓觀・城柵、(おごそか)に設け、常に人有り、兵を持して守衛す。

 女王國の東、海を渡る、千餘里。()た國有り、皆倭種。又朱儒(しゅじゅ)國有り。其の南に在り。人長三・四尺。女王を去る、四千餘里。又裸國・黑齒國有り。復た其の東南に在り。船行一年にして至るべし。倭地を參問するに、海中洲島の上に絶在し、或は絶え或は連なること、周旋五千餘里なる可し。

景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし、郡に詣り、天子に詣りて朝獻せんことを求む。太守劉夏(りゅうか)、吏を遣わし、將いて送りて京都に詣らしむ。

其の年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、「親魏倭王卑彌呼に制詔す。帶方の太守劉夏、使いを遣わし、汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝獻ずる所の男生口(せいこう)四人、女生口六人、班布(はんぷ)二匹二丈を奉じ、以て到る。汝の在る所遠きを()え、乃ち使いを遣わして貢獻せしむ。是れ汝の忠孝、我(はなは)だ汝を哀れむ。今、汝を以て親魏倭王と為す。金印紫綬を假し、裝封して帶方太守に付して假授す。汝、其れ種人を綏墲(すいぶ)し、勉めて孝順を爲せ。汝が來使難升米・牛利、遠きを(わた)り、道路勤勞す。今、難升米を以て率善中郎將と爲し、牛利を率善校尉と爲し、銀印・青綬を假し、引見勞賜(ろうし)して遣わし還す。今、絳地(こうぢ)交龍錦五匹(臣松之、以(おもえ)らく、地は(まさ)(てい)と為すべし。漢の文帝、皂衣(そうい)を著す。之を弋綈(よくてい)と謂うは是なり。此の字、體ならず。魏朝の失に(あらず)んば、即ち傳寫者の誤りなり。)・絳地縐粟罽(しゅうぞくけい)十張・蒨絳(せんこう)五十匹・紺青(こんじょう)五十匹を以て、汝が獻ずる所の貢直に答う。又特に汝に紺地(こんじ)句文錦(こうもんきん)三匹・細班華罽(かけい)五張・白絹五十匹・金八兩・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹(おのおの)五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、(ことごと)く以て汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむ可し。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。

正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁(ていしゅん)等を遣わし、詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拜假し、(なら)びに詔を(もたら)し、金帛・錦罽・刀・鏡・采物(さいぶつ)(を賜う。倭王、使に因って上表し、詔恩を答謝す。

其の四年、倭王、()た使大夫伊聲耆・掖邪狗等、八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑(こうせいけん)・緜衣・帛布・丹・木䝔(もくふ)・短弓矢を上獻せしむ。掖邪狗等、率善中郎將の印綬を壹拜す。

其の六年、詔して倭難升米に黄幢(こうどう)を賜い、郡に付して假授せしむ。

其の八年、太守王頎(おうき)官に至る。倭の女王卑彌呼、狗奴國の男王卑彌弓呼と(もと)より和せず。倭載、斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃することを説かしむ。塞曹掾史張政等を遣わし、因りて詔書・黄幢を(もたら)し、難升米に拜假し、檄を為して之を告喩せしむ。

卑彌呼以て死し、大いに(ちょう)を作る、徑百餘歩。狥葬する者、奴婢百餘人。更に男王を立てしも、國中服せず。更々(こもごも)相誅殺し、當時千餘人を殺す。復た卑彌呼の宗女、壹與年十三なるを立てて王と爲し、國中遂に定まる。政等、檄を以て壹與を告喩す。壹與、倭の大夫率善中郎將掖邪狗等二十人を遣わし、政等を送りて還らしむ。因りて臺に詣かり、男女生口三十人を獻上し、白珠五千孔・青大句珠(こうしゅ)二枚・異文(いもん)雜錦二十匹を貢す。

魏志倭人伝の記述による伊都国から邪馬台国までの合理的進路
二見浦(糸島)

魏志倭人伝の読み下し文

(「邪馬台国は福岡平野にあった 」の根拠になった文献です。)

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