「邪馬台国の謎」に迫る!

「邪馬台国は福岡平野にあった」

綿密な歴史書の調査と現地調査によって
明らかになってきました

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「邪馬台国」について、広く皆さまに知っていただきたいと思いますので、著者の手持ち分を当初の価格でお分けしております。

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「邪馬台国問題」についての概説

 

いわゆる邪馬台国は我が国の古代に実在した国ですが、その所在地については長年にわたって論争が続き、古代史に

おける最大のテーマとなっている、というのが普通に受け取られているところです。

表に現れた事象面を見ればその通りなのですが、私はこれを通常言われているように、長年にわたって論争が続いている、

とは言えないように思っています。

つまり、学会としてこの問題に本気で計画的あるいは組織的に解明に取り組み、その結果、論点が明確になり、絞られてきて

いるが決着がつかない、という状況ではなく、多くの場合、明確な論拠を示さないまま邪馬台国の候補地を主張するだけに

とどまっているのが現状です。

 学会としてこの問題に本気で取り組むのであれば、邪馬台国問題と一括りにするのではなく、解決に向けて論点を整理し、

その一つ一つの論点に対し、異なる主張をされる方々が、相対して論を戦わせるような場を設けるなどの取り組みを行い、

一つ一つの論点に対し、可能な限り詰める作業を行うのが、学問的な取組方であると思われますが、そのような作業は行

われず、従って論点も絞り込まれず、百年一日のような状態が続いているように見えています。

 学会がこのような、いわば研究者任せの対応であることから、この問題に興味を持った人たちが、思いつきのような論を

発表して論戦?に加わり、いわば百家争鳴といった状況が現出していると言って良いと思います。

 邪馬台国問題を解決に導くためには、「近畿か?」「九州か?」という括り方

では大雑把すぎるので、議論を進めるために、もう少し細かく論点を整理してみたいと思います。

1. 魏志倭人伝の信頼性について

 我が国では、一般には倭人伝はあまり信用できない史書とされており、研究者によっては自説に都合が悪い箇所は勝手

に改定して読むことが当然のように行われています。ある高名な考古学者がその著書の中で、倭人伝について「方向や日

程、距離などはあまり信じない方がいい、というのが私の立場である」と述べておられることを見ても、我が国における学会

での倭人伝に対する考え方を窺い知ることができます。尤も、明確な根拠を示した上で、そのような自説を述べられるので

あれば学問的な見解の表明と受取ることが出来ますが、倭人伝は信用できないとされながら、その根拠は示されないまま

というのが実態で、どうしてそのような判断に至ったのかという根拠は不透明です。百人百説とも言える思いつきのような

邪馬台国論が氾濫している現状は、有力な学者によるこのような、根拠を示さずに結論だけを述べるといったやり方が

まかり通っている土壌が生み出したものと言えるかもしれません。

 上記のような倭人伝に対する一般の認識に対して、私は倭人伝は距離や方向についても、大筋では信頼できる史書で

あると考えています。

 ご承知のように、いわゆる邪馬台国は中国の史書である魏志倭人伝の中で最初に登場した倭人の国です。

それ以前の中国史書にも倭人は登場しますが、その倭人によって構成された倭人の国が、邪馬台国という名前で最初に

登場したのが魏志倭人伝という訳です。通常、魏志倭人伝と言われていますが、実はこれは正確な史書の名前ではあり

ません。中国が魏・蜀・呉の三国に分かれて争っていた時代の史書である『三国志』、その中の魏書の最後に位置する

東夷伝、その東夷伝の、そのまた最後の倭人条というのが正確な言い方ですが、あまりに長く、又、分かり難いため略して

魏志倭人伝と言われるようになったものと思われます。

 『三国志』は3世紀の後半に、三国時代を蜀の役人として過ごし、西晋によって統一された後、西晋の史官となった陳寿

によって書かれた史書です。中国の歴史書はある王朝が終わって何十年か後に書かれることが多く、場合によっては百

年以上後に書かれることもある中で、同時代を経験した作者によって書かれているという点だけをとってみても稀有な書で

あると言って良いかもしれません。因に、三国志と並んでよく知られている『後漢書』は、三国志の直前の後漢時代のことを

記した史書ですが、成立したのは『三国志』より百年以上後になります。

 『三国志』については、曹操の重臣であった夏侯淵の曾孫で西晋時代の一流の文化人で多くの著作がある夏侯湛が

『三国志』を見て、そのあまりの出来栄えに、自身が執筆していた『魏書』を破捨てたという逸話が残っていることから見ても、

当時、相当な評価をされていたことが明らかです。

 更には、少し時代が下がって宋(劉宋)の文帝に命じられた学者である裴松之が細密な注を作成しており、現存する

三国志は裴松之の注がついたもので、膨大な注によって原作よりも分厚くなったものです。

 つまり『三国志』は、ほぼ同時代に書かれ、書かれた時代の文化人によって評価され、少し後の時代の学者によって

注をつけるために細かく検証された、という三つの要素で信頼性が裏付けられており、はるかに時代が下った現在の

人々にとって、わかりづらい箇所があると言って、簡単に間違いと決めつけることができない重みを持った歴史書である

と言えると思います。

2.  魏志倭人伝を読み解く

 魏志倭人伝の成立の経緯や評価などを考えれば、現在の我々から見て不明な点がある場合に、安易に間違いである

と片付けるのが、いかに問題含みのやり方であるのか納得頂けるのではないかと思います。邪馬台国に関する著作など

をお読みになる場合は、まず、その論者の倭人伝に対する向き合い方に注目されることが重要です。

もし根拠が曖昧なまま、倭人伝のある箇所を誤りだとして改定されているような論に出会われた場合には、誤りだとされる

理由について納得できるように説明されているかどうかを確認して頂きたいと思います。

尤も、多くの場合、何の断りもなく誤りだとされる部分が改定されて論が述べられていますので、一般の方にはどこが改定

されたのかもわからないのが実態かもしれません。

 私の場合、まずは自然体で読み解くことに努め、どうしても辻褄が合わないことが生じた場合には誤りの可能性を検討

する、ということにして読み解いた結果、明確な誤りと思われる箇所に出会わないままに、福岡平野にあった邪馬台国に

たどり着いた次第です。詳しくは拙著をお読み頂くとして、簡単にその要点に触れたいと思います。

3. 魏志倭人伝を読み解く上でのポイント

 邪馬台国が存在した時代は今から1700年以上も前ですから、国名や国の相互の位置関係や距離のはかり方などは現在

とは大きく異なっています。従って、読み解く場合、現在の状況で考えて解りにくい場合でも、簡単におかしいとするのでは

なく、その当時の状況を考えて読み解く必要があります。その意味で、現在と大きく異なっていることや、一般に間違いやす

いと思われる点などについて触れておきたいと思います。

・   朝鮮半島南部は倭人の領域であった

 『三国志』で倭人伝の直前に位置する韓伝には「韓は帯方の南にあり、東西は海を以って限りとなし、南は倭と接し、

方四千里なるべし」と書かれています。

ここで帯方というのは魏の朝鮮半島における一番南の領域である帯方郡のことですから、その郡の南に韓がある、

という当時の地理認識を示しています。帯方郡の役所(帯方郡治)は、ほぼ現在の平城付近と考えられますから、

その南にある韓は概ね現在の韓国の領域と見られます。

 ここまではすんなり理解できても、次の「南は倭と接し」の部分は人によって受け取り方が分かれています。普通に読めば、

韓の南に(陸続きで)接して倭がある、という意味になりますが、かなりの方は、倭は九州から現在の日本列島に広がって

いたと考えられており、この「接す」という意味は、海を挟んで接している、と理解されているようです。しかしながら、

「字通(白川静)」によれば「接」の字はもともと「交わる」とか「触れる」「連なる」などの意味とされており、直接陸続きで

接すると受取るのが素直な受取り方です。間に海を挟んで接すると受取るのは(全くないとは言えないかもしれませんが)

無理筋気味であることは否めないでしょう。

 現在の感覚では朝鮮半島南部に倭人の領域があったというのは、理解しにくいかもしれませんが、朝鮮半島南部に倭人

がいた痕跡は、現在の全羅南道から多くの倭系遺物(甕棺、日常土器など)が出土していることや、少し時代は下がりま

すが、日本書紀の継体天皇六年に、百済が任那(朝鮮半島南部)にあった四県を貰いたいとする申し入れがあった記事が

あることなどから、推し量ることができます。少なくとも継体天皇の時代には朝鮮半島南部には倭の領域があり、百済の

領域はそこまでは及んでおらず、帰属に関しての申し入れを行ってきたことからも、倭人の領域が朝鮮半島南部に及んで

いたことを窺わせます。

 朝鮮半島南部に倭人の領域があったことは、朝鮮の古代史書である三国史記にも、倭人伝の時代より前から倭人との

接触があった記事が多くみられ、中には、倭人が境を超えてきた、などとする記述があることから見ても倭人の領域はかな

り早い時代から朝鮮半島南部に及んでいたことを裏付けるのではないでしょうか。

・   倭人伝で使われている一里の長さは80m弱であった

 韓伝では韓地の広さを約4000里四方であると記されています。その領域は正確には解らないまでも北には帯方郡があり、

南は倭と接しているのですから、ほぼ現在の韓国の領域から全羅南道を除いた部分と見て良いと思われます。

そして、「東西は海をもって限りをなす」というのですから、その幅は現在の朝鮮半島の幅と大差ないと考えて大きな間違いは

ないでしょう。実際の幅は300~360Kmです。それが4000里ということは、割り算すれば、一里の長さは75~90mということ

になり、現在の一里の長さとは大幅に異なります。他の面からも検証すると一里は約80m弱ということになり、この短い一里の

ことは短里と呼ばれております。

 魏使は帯方郡を出発し、韓地を経て倭人の国まで旅をしたのですから、途中で物差しの基準が変わるとは考えられず、

倭人伝で使われている距離の物差しも短里ということになります。倭人伝を読み解く大きな鍵の一つは倭人伝の里程が短

里で書かれていると理解するところにあるようです。通説では、そのような短い里があったことは信じられないとして、一里は

500m弱であるとして読み解くのが大勢となっていますが、これは信じる・信じないという次元の問題ではなく、事実に素直に

目を向けるか、都合の悪い事実からは目を背けるのかの違いと言って良いと思います。

・      邪馬台国の所在地は九州から大きく離れることはない

倭人伝では距離の物差しとして短里が使われていることが納得できれば、その先の探求は比較的容易になります。

まず倭人伝では、帯方郡から邪馬台国(女王国)までの総里程が書いてあり、それは一万二千余里です。そのうち、韓地を

経過するのに七千余里進むとされています。韓地の最南端までくると、倭人の領域の最北端に達し、そこからは大海に乗り

出して、対馬、壱岐を経て末盧国(松浦)まで渡ってくるのですが、その間に三つある海峡は各千里と記されていますから、

松浦半島付近に到着するまでに合わせて一万余里経過したことになります。

 途中の経路については色々な論があるのですが、出発点が帯方郡であり九州の最初の到着点が松浦半島付近である

ことは、多くの論者で異論のないところでしょう。倭人伝ではその距離が一万余里であると言っていることになります。その

読み方が間違いなければ、単純な引き算で、残りは二千余里ということになります。経路の取り方や経路の見方によって

違いはあるとしても、探索できる範囲は松浦半島付近から最大でも二千余里(約160Km弱)しかありません。

邪馬台国はこの範囲にあるのですから、どのように見積もっても九州から大きく離れることはありえないというのが自然な

結論だと思います。


「邪馬台国は福岡平野にあった」

邪馬台国の所在地を求めて通説に挑戦

邪馬台国は福岡平野に!

古代史書と地形や伝承などから明らかになった意外な「邪馬台国」の所在。邪馬台国」の所在地に関する疑問は邪馬台国論争となって現在も未解決ですが、その邪馬台国の疑問を筆者の捉われない眼が解き明かします。

邪馬台国はどこにあったのか

いわゆる邪馬台国論争は歴史に興味がある人ならば誰でも知っていますが、邪馬台国論争の実際の内容は、ほとんど知られていません。

現在の邪馬台国論

歴史的・地理的に最有力の候補地を外して迷走している のが実態と言ってよいでしょう。

「邪馬台国は福岡平野にあった」は、著者の綿密な歴史書の調査から、邪馬台国が福岡にあったことを解き明かしました。

「邪馬台国は福岡平野にあった」の詳細は、インデックスをクリックしてご覧ください。

下記についての概要をご覧いただけます。

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「邪馬台国の位置は魏志倭人伝の検証から」

倭人伝を自然体で読み解けば・・・・・

邪馬台国は日本の史書には記載がありませんが、中国の史書である三国志(魏志倭人伝)に書かれていることから、その実在については疑われてはいません。にも関わらず、学会では倭人伝そのものは間違いが多い書と位置づけられており、ある公的な資料館の解説書には「邪馬台国の位置は不明です。南という方位の記載誤り?水行十日陸行一月という日数誤り?等の書き間違い(写し間違い)の可能性があります。」と説明されています。また、某大家の著書では「方向や日程、距離などはあまり信じない方がいい」との記述がみられます。

倭人伝は間違いが多い書というのが学会の常識となっている感がありますが、何故間違いなのかを明確に説明された論文などは見当たりません。証明されないままに「間違いが多い書」という評価が一人歩きしていると言っても過言ではないでしょう。

学会の常識に反して、倭人伝は次の三つの理由によって中国の史書の中でも信頼できる史書の範疇に入ると思われます。(以下は本文をご覧ください。)

「魏志倭人伝の記述を現地で仔細に調査」

 邪馬台国を考える上でのポイント

倭人伝には女王国に至るまでの方向や里程が、概略とは言え、明確に書かれています。ただ、その書き方は簡潔であるため、誤解や誤読を招く可能性があります。それを避けて倭人伝の記載に従って邪馬台国にたどり着くためには地形や、当時の痕跡が残る遺跡などの状況を踏まえて読み解く事が求められます。その主なポイントを通説に惑わされない21の鍵として整理しました。その考え方の概略を述べておきます。

「魏志倭人伝が語る邪馬台国の位置とは」

魏志倭人伝読み下し文

「邪馬台国は福岡平野にあった 」の根拠になった文献です。

読み下し文として掲載しましたので、ご覧ください。→ コチラ


「邪馬台国は福岡平野にあった!」

講演会に多数のご参加ありがとうございました。

 邪馬台国が福岡平野にあったことは、まず間違いないと思っておりますが、

一般の受け止め方は半信半疑であるというのが偽らざるところなのでしょう。

邪馬台国の中心地である女王卑弥呼の居所は春日市にある「奴国の丘歴史公園」が

最有力ですが、春日市在住の方々もその可能性に着目されるようになり、歴史を見直す

契機にと考える方々のご努力により、平成29年2月21日(火)に春日市クローバーホールにて

講演会が開催されました。ご出席の皆さま、ならびに後援の労を取っていただきました

春日市及び春日市教育委員会の皆さまに、心より感謝申し上げます。 → 講演会

著者略歴

 修猶館高校、九州大学工学部を経て昭和40年伊藤忠商事(株)入社。会社勤務時代の後半頃から古代史に大きな関心を持ち、探求の道へ。「東京古田会」で会報の編集を担当するも、古田武彦氏と異なる見解の一端を披瀝し、猛省せよとの叱咤を受け退会。

「九州古代史の会」で日本書紀の講読を主宰し、顧問として現在に至る。

 主な発表論考に、九州古代史の会で発表した、イザナギ・イザナミの黄泉の国神話は実在した人々による実際に起こった事件が神話化されたものであるとする「記録に残る我国の歴史は博多湾から始まった」及び、現存古事記の序文は偽りで、後代に加筆されたものである一方、原古事記の成立は序文記載よりも古く舒明天皇時代であることを見出した「現存『古事記』の成立は和銅五年よりは新しい」がある。

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